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MH的自己紹介

建設日:2004/09/30
更新日:2007/08/05

 私の活動歴

私のこれまでに関わった障害者福祉の活動について,簡単に紹介します。

 1997年

大学入学してすぐに,重度の在宅の身体障害者の介助(ヘルパー)を始めました。これは生計を立てるための重要な手段として,法科大学院(ロースクール)に入るまで続けていました。

アルバイト感覚といいながらも,もらっていた介助料(ヘルパー報酬)は,時給250円くらいです。今ほどヘルパーが仕事として認知されていなかった時代のことです。

ヘルパーを通して知り合った障害者の方々に,ずりずりと障害者福祉の世界に引き込まれてゆきました。最初はいろいろなところにお供をし,そして徐々に深く関わってゆくようになりました。

障害者団体の全国総会,省庁交渉や都庁・区交渉などに臨席したり,障害者にも利用しやすいバリアフリー交通を求めて,銀座でデモ行進したりしていました。

 1998年

障害者団体と政府・政党の政策懇談会を通して知り合った衆議院議員の紹介で,「障害者欠格条項問題」に関するNGOの立ち上げに誘われました。

「障害者欠格条項問題」とは,障害を理由に資格が取れない,職業に就けないという法律上の制限です(たとえば,聴覚障害者は薬剤師になれない,など)。当時,政府は見直しの準備に入っているところで,私たちは政府の見直し作業を監視してゆこうとNGOを立ち上げたのです。

 1999年

5月に「障害者欠格条項をなくす会」を立ち上げました。会にはさまざまな障害当事者や医師・弁護士・大学教員等の専門家が参画し,私は事務局に入りました。

この1年間は,欠格条項撤廃を求めて省庁交渉,全国会議員を対象にしたアンケート調査,海外事例の調査,都道府県及び市町村条例内の欠格条項の洗い出し,参議院内で各分野の専門家からのヒアリングを重ねました。

これらの成果は,障害者欠格条項をなくす会編『欠格条項にレッドカードを!−障害者欠格条項の見直しに関する提言−』(関西障害者定期刊行物協会,2000)にまとめられています(私も執筆・編集に関わっています)

 2000年

障害者欠格条項問題に関する政府の見直しは,2000年度が山場となりました。改正法案が続々と国会に上程されます。中でも,医療法関連・運転免許・公営住宅法の見直しは積年の課題です。

野党と連携して対案作成,国会内で委員会審議の質問案・修正案・付帯決議案作成に関わりました。

完全に欠格条項が削除された法律もあれば,政令落ち・省令落ちして(政令・省令は政府・省庁が決定するので,国会のチェックが及びません),国会の手の届かないところに行ってしまったものもあったり,ぎりぎり付帯決議に持ち込んで5年後の見直し規定を盛り込むのが精一杯だったり,結果は様々でしたが,口惜しい思いもたくさんしました。

そんな中でも,聴覚障害を持つ薬剤師,脳性麻痺の小児科医等が実際に誕生したことは大きな喜びです。

成立した法案等の見直し過程も含めた報告は,臼井久実子編著『Q&A障害者の欠格条項―撤廃と社会参加拡大のために』(明石書店,2002)に詳しく載っています(私も分担執筆しています)

 2001年

大学に2年残留を決め,休学しました。

4月,知人から声をかけられて事務所に行ってみたら,そこは選挙事務所。一本釣りで選挙事務所に入れられてしまいました。

最初はアルバイト程度だったのが,いつの間にか正規職員に。民主党参議院比例区第30総支部という政党支部の総務部長になりました。以後,届出事務担当,選挙会計担当等を兼務。この頃の勤務時間は月400時間を超えています。

参議院比例区は全国区。障害当事者の候補者と一緒に猛暑の中を飛び回りましたが,砂を掴むような選挙戦でした。このときの様子はヘラルドトリビューン・朝日新聞にも取り上げられています。

結果は惜しくもでしたが,このとき築いた人脈は今でも大切なものです。日本中に知り合いができましたし,このときの肩書きひとつで今でも国会に出入りできますから。

――2001年の話題をもうひとつ。

前年に精神障害の方の訴訟支援の案件に関わっていたのがきっかけで,精神障害・精神医療に興味を持ち始めました。

精神医療の市民ネットワークを作ろうということになり,精神障害当事者や医師・看護師・PT(理学療法士)・OT(作業療法士)・PSW(精神保健福祉士)等の各種専門家が入り,私は世話人になりました。

その会の発足の日,2001年6月8日に,あの大阪教育大付属池田小の児童殺傷事件が起きたのです。会の発足のNHKニュースは事件報道に差し替えられました。

事件の衝動により,世論は一気に社会防衛へ。翌年国会に上程された「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」に流れてゆきます。

 2002年

2002年は札幌が思い出深いです。前年秋にも仕事の都合で札幌に来ましたが,この年は10月にDPI世界会議札幌大会という国際会議が開かれました。

DPIは国連経済社会理事会,WHO,ILOの諮問機関で,150ヵ国以上が加盟する,障害当事者の国際組織です。私も1997年から事務局にコミットしています。

109ヵ国から3,000人以上の障害者・支援者が集まり,「札幌宣言」を採択し,4日間の会議が閉幕しました。会期中,私は世界本部の事務局と,日本支部の事務局の間を浮遊していました。

会議後,網走をひとり旅。

帰京してからの半年は「支援費制度」を俎上にした国との戦い。支援費制度とは,障害者の自立支援を措置から契約へと方式を変えるもので,その理念はともかく,これによって長年にわたる権利運動によって獲得してきた障害者の介助費が目減りされる危険がでてきたのでした。

制度変更にともなって財政支出を削減したい国・厚労省・財務省の思惑と,介助費の切り下げは生命の危機と訴える障害当事者。

2003年4月の制度開始に向けて,ぎりぎりの交渉が続いてゆきます。

 2003年

4月から始まった障害者支援費制度。介護保険同様,見切り発車に近い状態だったゆえ,少々の混乱は織り込み済み。

しかし,年末には予算の大幅不足という予想外の大混乱を生むことになります。

9月,札幌へ転居。東京ではない,地方の障害者福祉の現場を見たいと思い,10月から地元のNPOで勤務。

年末には退職を決め,そして,北海道大学の法科大学院を志望するようになりました。

 2004年

1月,北海道大学法科大学院の入試。入試当日に雪道ですべって,ひどい転び方をしたのを覚えています。

2月,合格発表。地元の新聞とかNHKニュースとかに,ちゃっかり載っていました。

3月以降は日記に書いているとおりです。

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